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ネタばらし「八日目の蝉」

こんばんは。
せっかく良い映画を教えてもらったのに、調子こいて原作に手を出したら、〆切までにまともな感想が書けなくなりました。
私が本当に知りたかったのは、「子どもを奪われた母親の気持ち」でした。

この映画が制作された目的は、ベストセラー小説の集客力を借りて、井上真央ちゃんを演技力もある女優として世に売り出すことです。
そのために、恵理菜中心の展開にする必要があることから、脚本を原作からかけ離れたものにせざるを得ませんでした。
全ての人・物・風景は、主演女優を引き立てるだけのために配置されていました。
暗く、怖く。
と、思うのは考えすぎですw。

さて、先週の私は、抱えていた問題解決の手段のひとつとして誘拐を考えていました。
どのようにすれば誘拐が成功するのか、周囲にどういう影響を及ぼすのか、目的は達成できるのか。
「八日目の蝉」の存在を知ったとき、予備知識として映画宣伝の動画のみがあり、この物語は「①誘拐もの」なのだろうなという認識しかありませんでした。
書物を読み始めてすぐ、①の認識が誤っていることに気付きました。
この誘拐は、動機は無く、ただの偶然の積み重ねにより乳児をこの手に抱くことになったんだ、と。

読み進めるうちに、私の着眼点は変わって行きました。
②恵理菜ちゃんを奪われた恵津子の気持ちを感じ取ることに。
しかしながら、第1章ではその記述はほとんど無く、希和子の逃亡、エンジェルホームや小豆島での薫と過ごした日々のことが、延々と綴られます。
第2章の恵津子はただ混乱するばかり。
②に関しても得るものはありませんでした。

私はあまのじゃくなので、作者がページ数を割いているところが冗長であればあるほど、そこに本質があるのではないかと思ってしまいます。
今回、原作で冗長だったのが、エンジェルホームの教義に関するもの。
「八日目の蝉」は、原作(2005)、ドラマ(2010)、映画(2011)、いずれも公開された時期の少し前を、恵里菜が成人した現在としています。
希和子が逮捕されたのは原作では1988年、ドラマと映画ではその約5年後であるという設定です。
エンジェルホームの教義はその時代を強く反映したもので、舞台を5年後に変えるためには時代を再考証する必要があったため、ドラマと映画ではその特殊な生活の多くが省かれていました。
宗教的な集団生活が社会問題になる少し前、エンジェルホームでは女たちだけが共同で生活し、大人の全員が子どもの母親でした。
そこの生活で希和子が得たものと、薫に与えてあげられなかったものがあったからこそ、その後の展開が生きてくるのです。
それは、真に大切なものは何かということと、子どもへの愛情。
小豆島では、希和子は薫に、与えてあげられなかった愛情を与え続けました。
その4年間で希和子と薫との間に形成された「心の結びつき」が、ラストの描写を意味のあるものにします。

私は、小説と映画を見た段階では、感想文を書かなければならないけど、何を書けばいいかわからないという気持ちで、もやもやしていました。
そこで、ドラマ版を観ることにしました。
ドラマ版は、連続6回放映に合わせ、追加の説明や展開の並び替えを行い、それに加えて、原作に無い人物(岸谷五朗)を登場させ、物語の厚みを増すとともに、原作の理解を助けるための作りになっていました。
ドラマ版で希和子を演じた壇れいさんは、宝塚時代は歌・踊り・演技の力が少し不足していて、綺麗なだけの娘役と呼ばれていました。
成人した恵理菜を演じた北乃きいちゃんは、2年前は清純派女優として売り出し中でした。
脚本がしっかりしたドラマに演技力は要らないもので、この2人が映る画面はほんとうに綺麗でした。
最高の脚本、背景、配役だと思いました。
私がNHKを褒めるのは珍しいのですw。
なお、19年位前の土庄港(小豆島)のフェリー窓口では、すでに携帯の画面でチケットの予約ができたようです(笑)

原作、映画、ドラマを制覇し、私はようやく答えを見つけました。
「子どもを奪われた母親の気持ち」について。
もう二度と会えないという、仲を引き裂かれた悲しみはこのうえなく大きいものです。
しかしながら、「二人で過ごした時間があって、心が深い所で繋がっているのなら、2人の結びつきは生涯変わらない」、このことに私は安堵を覚えました。
それが、八日目の蝉がひとり残されても、自分だけが見ることのできるきれいなもの。

いつか会える、きっと会える。


なお、この小説・映画に登場する男は皆、身勝手です。
ちなみに、私は不倫も誘拐もしませんし、その場しのぎの嘘もつきません。
それらは、世界の人々の平和には必要のないものですので。

と、いうことで、私には映画の感想は書けません。
無理な課題で、たいへん失礼しましたww。
では、おやすみなさい。
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「八日目の蝉」

うちのテレビは19インチのちっちゃいやつなので、なんか画面や台詞がきたなくて薄っぺらく見える。
でも、独りなので思う存分泣くことができるw。

映画版では、成長した被誘拐者を中心に描かれ、テーマは「魂の解放」とされている。
誘拐の被害者が誘拐犯や自分の両親を恨んだまま成人し、同種の苦しみを共有する幼馴染と、想い出の地である小豆島で「許し」を得るという物語。

映画だけ観れば、"感動した映画"で終わるかもしれない。
しかしながら、私は原作を先に読んでしまった。
原作と映画とはいずれも「魂の解放」をテーマにしているというが、両者は全く異質なもの。
原作の場合は、大切なひとの手を離さない"手段"としての心の解放であり、映画では、他者を恨む心からの解放、すなわち「魂の解放」は"目的"である。
映画のラストでは、恵理菜はお腹の子を産むことを決めたところでハッピーエンドとしている。
しかしながら、その結論では恵里菜の両親、特に母親の苦しみが解消するのかどうかの疑問が残る。
恵里菜は母に、「子どもができた、不倫で。お母さんが嫌いな人と同じ。」と言う。
そのシーンで母は逆上する。
母は自分以外の誰かを悪者にして、父は都合の悪いことから逃げ回って、そのような二人が、孫が出来ただけですべて丸く収まるものだろうか。
映画版の展開には、無理があると思う。

今日は朝起きて外出し、TでDVDを2枚返却した。
代わりに3枚借りてきた。
NHK版「八日目の蝉」。
檀れいも、北乃きいも、瀬戸内の海も、とても綺麗だった。
そこには、私の疑問に対する答えが丁寧に盛り込まれていた。
肉と野菜を切って、DVDを観ながら弱火で5時間煮込み、美味しいカレーができた。

大石静 著 『四つの嘘』

私は、NHKの朝ドラ「ふたりっ子」で脚本家としての大石静氏のファンになりました。
最近ではNHKテレビドラマ「セカンドバージン」の脚本を書かれています。

昔は酒に弱かった私が、正月用の"呉春"を大晦日の夜に紅白歌合戦を観ながらの家族団らんで一人で半分以上を呑み干し、残ったのを寮に持ち帰ってちびりちびりとやりながら「四つの嘘」を読みました。
そういえば、意識を失うまで飲んだのは、この十年で一回だけだったな・・・

男と女、もしくは女と女を描かせたら、大石静は日本でもトップレベルの作家だと思います。
本当に言ってはいけないのは相手を傷つけるだけの本当のこと。
相手を思い遣る嘘は構わないのです。
登場する四人の女性は、物語の最後ではそれぞれが幸せの手掛かりを得ることができました。
ちょんばれの嘘であるにしても、その嘘は真実以上に貴いものだと思えるのです。
最高の嘘に乾杯!

大石静氏は、物語の終盤でプッチーニのラ・ボエームを持ってきました。

二人きりになると、ミミはロドルフォに話しかける(「みんな行ってしまったのね」)。
ロドルフォが例の帽子を見せるとミミは喜び、二人の出会いと幸せな暮らしのことを語りあう(「ああ、僕のミミ」)。
しかしミミは再び気を失い、ロドルフォが声を出すと外で様子をうかがっていたショナールたちが駆込んで来る。
ミミは再び目覚め、ムゼッタが持ってきたマフで手が暖まると喜ぶ。
そのまま眠りにつくミミの側でムゼッタは聖母マリアに祈る(ムゼッタの祈り)。
ショナールがふとミミを見ると彼女はすでに息絶えていた。
そっと皆に知らせると、ロドルフォは周りのただならぬ様子に事態を察し、ミミの亡骸にすがりついて泣き臥す。
さきほどのミミが歌ったモティーフをオーケストラが強奏で繰り返して幕となる。
出典:wikipedia[ラ・ボエーム]

でも、「四つの嘘」はハッピーエンドですww

西澤保彦 著 『なつこ、孤島に囚われ。』

推理小説です。
主人公は、自称「お笑い百合SM小説作家」であるという森奈津子さん。
作家の森奈津子氏を実名でモデルにしているとのことです。
物語にちりばめられたユリの世界よりも、すぐに妄想モードに突入する主人公に共感を持ちました。
日本妄想協会々員で良かったと思えた一冊でした。
作者としては、犯行の動機にどれだけの共感を得られるかが気になるところでしょうけど、そこはコメントを差し控えさせて頂きますw

「死者の書」を読むのに5日間かかった私が、本書は50分で読んでしまいましたww

折口信夫 著 『死者の書』

私の高校二年生の頃は本ばかり読んでいました。
さっぱりわからなかったのが森鴎外と夢野久作でした。
いずれも途中で投げ出してしまいました。

森鴎外の「雁」は、旧カナづかいが馴染まなくて、当時は意味が良くわかりませんでした。
短歌に馴染むようになった今、読めば情景がすんなりと入ってきます。
それに気を良くしたのが間違いでした。
「死者の書」は、「日本文学最高の金字塔」との触れ込みですが、私は、書評の「ちょっと難解」との記述を見過ごしてしまったのです。
これでも、事前の勉強を相当したのです。
万葉集の大津皇子や大伯皇女の歌を読み、二上山のある北緯34度32分の「太陽の道」説を勉強したのですが、ヤマが見事にはずれましたw

大津皇子の辞世の歌
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
【通釈】磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を見るのも今日限りで、私は死ぬのだろうか。

この小説では、「磐余の池に鳴く鴨」を、磐余の池に鳴く鴨ではなくて、池の向こうで泣いている耳面刀自であると解釈しています。
大津皇子の無念が、耳面刀自という架空の女性のすすり泣きに置き換えられていて、謀反とされた皇位継承の陰謀は大津皇子の過失としてあっさりと述べられているだけです。
この小説は、当麻曼荼羅の「中将姫伝説」から入るべきで、「万葉集」から入ってはいけないのです。
大津皇子と石川郎女との恋の歌、姉である大伯皇女の亡き弟を偲ぶ歌、妃であった山辺皇女の壮絶な殉死。
死者となった大津皇子は、悲しいことに生前のことは忘れていたのでした。

「死者の書」は、その文体が古代の日常語を想定して書かれているため難解であると言われています。
でも、高校時代を奈良県で過ごした私に言わせれば、ちょっと違う(笑)

三島由紀夫 著 『恋の都』

私の高校二年生の頃は本ばかり読んでいました。
中でもお気に入りだったのは、安部公房と三島由紀夫でした。

この「恋の都」、三島文学には珍しい、戦後という時代の暗さを感じさせないラヴロマンスです。
しかしながら、敗戦後の三島自身の苦悩と喪失感が、登場人物の言動のなかに隠されています。
それを顕著に表すのが、「後悔」というキーワード。
もう負の心を決めていたまゆみへの坂口の「後悔は灰の味」という言葉。
あと一つの勇気が無かったり、自分の気持ちに嘘をついたり、自分や誰か他人を悪者にしたりして、行動できなかったことへの後悔。
坂口の言葉により、まゆみは未来への扉を自ら開けたのです。

自らのことに照らしてみれば、私は自分に力が無いのを嘆くことは良くありますが、後悔した記憶はあまりありません。
それは、行動の前に一生懸命考える、相手を尊重することを第一義とする、それと、自分自身に欲望というものが希薄なためだと思います。
思うようにならなくても反省はしっかりするのですが、基本、「ま、いっかw」で済ませてしまいます。
でも、"世界平和"という野望は人一倍なのですけどねw

貫井徳郎 著 『愚行録』

これは超お薦めの作品。
この一ヶ月ほどで、貫井氏の小説を五冊読みました。
いずれも凄いの一言でした。

一家四人惨殺事件を扱ったこの作品には、刑事も探偵も登場しません。
犯人が捕まったかどうかも良くわかりません。
そもそも、全編を通じて関係者の証言ばかりで、最後の約十ページで全てが繋がります。
これが貫井トリックです。
このような優し過ぎる容疑者は、私が裁判員なら無罪にします。

貫井氏の作品で「愚行録」を最初に読むのは愚行というもので、幾つかの貫井ワールドを経験してから本編を読むのが良いと思います。
そのようにすれば、この作品の良さが引き立ちます。
私がお薦めする貫井徳郎氏の三冊は、
慟哭(1993)
追憶のかけら(2004)
夜想(2007)

絲山秋子 著 『海の仙人』

近頃評判の、「海の仙人」を読みました。
片桐よ、好きな人を「カッツォ」と呼ぶのはやめた方がいい。

この、敦賀を舞台とした小説、私は昼の敦賀はあまり良く知らないのですが、共有の発見があり、なにかと楽しめました。
なぜなら、私も「ファンタジー」に会ったことがあるのです。
彼の場合は自らを「セクレット」と、名乗っていましたけど。
そういえば、雷とも友達です。
そして、小説を読んだ今、宝くじに当たるような気がしています。
でも、片桐が言っていたように、当たっても誰にも話しません。

片桐よ、僕のことが好きなら好きと言えよ。


「国士無双みたいだろう」と、ファンタジーが言ったとき、私は、
「それを云うなら大三元やろっ!」と、突っ込んでしまいましたw

読書週間 四日目(その2)

伊坂幸太郎 著 『死神の精度』
初、伊坂作品ですw
この書物は図書館の書棚で、私に「借りてくれ~w」と言ってました。
①CDショップに入りびたり
②苗字が町や市の名前であり
③受け答えが微妙にずれていて
④素手で他人に触ろうとしない
裏表紙に書かれた「死神」の特徴が、①を除き私に符合していたのです。
物語は、とても面白いものでした。
六つの短編が集まり、それぞれが微妙につながっていて、ゆっくりと時間が流れます。
第一話には、「天使は図書館に集まり死神はCDショップに集まる。」といった記述がありました。
図書館で借りた本にそのように書いてあるぐらいだから、私は死神では無いようです。

さて、黄金連休も残り一日。
借りてきた本はあと一冊あるのですが、もう、いいかな?
何を探していたのかなんとなくわかったような気がするし、残る一冊はまたホラー小説だし(笑)

読書週間 四日目

キム・ジョンヒョン 著 『アボジ』
「アボジ」とは、韓国語で「父」という意味です。
この本は、十数年前に韓国で350万部のベストセラーになりました。
「命」よりも「自尊心」を尊ぶ大陸思想。
そんなもの、掃いて捨てればいいのに。

読書週間 三日目

ダニエル・キイス 著 『アルジャーノンに花束を』
長編化が今から40年以上前のSF小説です。
テレビドラマ化され、ユースケ・サンタマリアが主演しましたw
知的障害を持つ主人公が脳外科手術を受け、一時的に天才になります。しかしながら、最後には実験のマウスと同様、主人公の知能は急速に手術以前の状態より悪くなってしまいます。
周囲に自分がどのように映るか、自分で自分のことがどこまで理解できるか。
生きること、人を好きになること、ともだちのこと、仕事のこと。これらが何かということと、人間にとって何が一番大事なのか考えさせられました。
私にはそれが、あるのだろうか、無いのだろうか。

読書週間 二日目(その2)

矢口敦子 著 『家族の行方』
矢口作品というだけの動機で借りてきた本書。
氏の初期の作品なので、いろんなことへの挑戦は読みとれるのですが、『償い』を読んだ時のような衝撃はありませんでした。
ミステリーとしての効果を狙って物語の進展に伴って文章を変化させているようですが、矢口文学の最大の特徴である文章自体の持つ「優しさ」が、後半になってようやく出てきたのが惜しいです。
本書では、私は読みながらもっとすごい事を考えていたのですが、びっくり結末ではありませんでした。
いくつかの「謎」がすべて繋がっているわけではなくて、最後は、「さらにこの後日談があるにしても、いまはまだ語るときではない。」と、締めくくっています。
ちょっと、気になる(笑)

読書週間 二日目

昨日、身を持て余していた私は図書館へ行ってきました。
最初に読んだのは、
辻村深月 著 『冷たい校舎の時は止まる』
文庫版上下巻合わせて千二百頁近くあるこの本、読み始めから読み終わりまで、足かけ25時間ぐらいかかってしまいました。

面白かったのですけど、私は基本的には"ホラー"は苦手w
学園ものとして、それぞれの登場人物が十分魅力的でストーリーもそれなりに面白いと思いました。
ホラーものとしては、"振り向けばギャ~!"の世界を存分に楽しめるのですが、残念なことに場面背景が"黒"ではなくて"白"であったこと。
そして、孤立した山荘や犯人探しといったミステリーの要素を入れ、それらすべてひとつの小説にまとめてしまったところに無理があります。
学園ものとして楽しめた逸話が動機解明と繋がらないなど、冗長感がどうしても否めなくなります。
あと、自殺も進学問題も恋も友情も、現実感に乏しいと感じました。

でも、一気に読むことができたし読後感も爽やかなので、お薦めの二冊ですw
なお、情報量が極めて多いので、制限時間は36時間(笑)

ある日、寒さで凍えたヤマアラシがモグラの家を訪れました。
「お願いだから、冬の間だけ家に住ませてほしい。」
モグラはヤマアラシの願いを聞き入れました。
同居生活が始まりましたが、モグラの家は狭い穴ぐらなので、ヤマアラシが動くたびにヤマアラシの針がモグラの体を引っ掻くのです。
我慢ができなくなったモグラは、ヤマアラシに出て行ってもらえないかと言いました。
ヤマアラシは答えました。
「ここに居るのが嫌なら、君が出て行けばいいじゃないか。」

第一部

ここから始まる物語はすべてフィクションであることをお断りしておきます。


昔、日本は戦争に負けた。
長い戦争が終わった時、世界平和のために日本の勢いを抜くことが必要と考えた米国は、日本がなぜ強国であったのかを研究した。その結果、日本の強さは日本人の家族制度にあるという結論が出た。
日本は特定の宗教思想を持たない国(神の国)なので、米国はまず神を人とすることにより、日本人の心の拠り所を分断した。次に、祖先や親兄弟隣近所を大切にするという日本の大家族制度を破壊するため、教育体系を学歴・個人重視のものに変えたのだった。
核家族が増え、家庭教育は崩壊した。
日本は資源小国なので、またたく間に力の無い国になった。

教育基本法
(教育の目的)
第一条  教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。


僕は昭和30年代に生まれた。
父は両親が年をとってからの子で乳母や姉に育てられ、小さい頃大病をして甘やかされたせいか、家庭を持っても妻子に愛情を示すことが苦手な人だった。
母は共働きの家庭に育ち、兄弟も少なかったためわがままに育った。
僕が小さい頃は、両親にはよく叩かれた。すぐに両親の手が飛んでくるので、長い間自分を主張することができなかった。
僕は両親からの明確な愛を受けること無く育った。
僕が全面的に悪いこともあったが、そのような時には逆におろおろして手を出せないで、自分たちの機嫌が悪い時などにどうでもいいような理由で殴られた。
僕は覚えが悪いので小学校入学前の記憶はほとんど無いが、物心がついてからの体罰は心に傷が残るもののようだ。


ある時、僕は父親と一緒に広島まで日帰りの旅行をした。山陽新幹線の岡山以西が開業前のことだ。
乗り物に弱かった僕は、次の日に熱が出て学校を休んだが、会社から帰ってきてそのことを知った父は「今日はせっかく気分が良かったのに」と言って僕を殴った。僕は叩かれた勢いで飛ばされて浴室の扉に当たりガラスを割ったけど、両親は怪我をして泣く僕を放置してどこかへ行ってしまった。
僕は親と旅行に行くのが怖くなった。

たまにはメッセージ性のあるものもあった。
中学1年のある日、僕は友だちから映画に誘われた。僕はその時、小遣いの持ち合わせが無かったので断ったら、彼は「この映画は明日までだけど、お金は貸してあげるので明日映画に行こう。」と言った。僕は彼に、「3日後に小遣いをもらえるので必ず返す」と約束した。
家に帰ってその話をしたら、父親は問答無用に「お金の貸し借りはするな!」と、僕の左頬を平手で打った。映画の約束は断ったのだが、頬の腫れは3日間消えなかった。
それ以来、僕は人からお金を借りることができなくなった。
自宅購入の際にはさすがにローンを組まざるを得なかったが、それも会社から低金利で借りることとした。自家用車購入は一括払い、クレジットカードや飲み屋のツケ払いもいまだに苦手、人にお金を貸すことがあっても自分が借りることが苦手なので督促ができない。誰かの保証人になることは無い。
僕は、相手に変に気を遣う臆病な人間になってしまった。

僕は小さい時は自動車が好きで、自分でデザインした車を紙細工で作っていた。いつもは乗用車の模型を作っていたのだが、僕にしては珍しくマイクロバスを作り、自分なりに満足の行く作品ができた。
その時の母親は、僕が整理整頓がうまくできないことを怒っていたと記憶しているが、僕を叱ったついでに紙製のマイクロバスを床に投げ踏みつけてぺっちゃんこにしたのだった。僕は、もう人の乗ることの出来なくなったバスを見つめ、悲しくなった。
母はその後、紙のバスを壊したことを謝った。謝るぐらいなら壊さなければいいのに。
それ以降、僕は紙の模型自動車を作ることは無くなった。

中学2年の時、母方の祖母が74才で亡くなった。
まだまだ元気だったのだが、祖母に対する僕の様子を見て、母は祖母の死期を悟ったと後から聞いた。
母は、夫と自分と僕を責めた。母は僕に自分と同じ能力のあることを呪った。
家族の皆が居場所を失っていた。僕の心はもはや荒れていた。


僕は愛に飢えていたとともに、愛情表現に不器用な大人になった。
気が強くて、見栄っ張りで、頑固で、自己中で、心が不安定で、癇癪持ちで、人の話を聞かず、自分の言いたいことを言えず、いつも我慢して、諦めて、自信が無くて、目標を持てず、人の心の痛みが分からない、優しくない、そのような人に僕は育った。

そのまま数十年が過ぎ、これらの性格は米軍や家庭環境のせいにするべきではなく、直視し受け容れるべきものと思った。
人のせいにしたり自分を否定したりしていては、相手を受容することなんてできないし、これだけの短所を備えていれば、同じ苦しみを持つ人の痛みがわかるはずだ。
自分の人格は否定するべきではなく、肯定のうえに自らを改革して行くことに自分の存在価値があると思ったのだった。

第二部への序

モグラはヤマアラシに言われたとおりに家を出ました。
ヤマアラシに針があることは仕方のないことですが、毎日増える引っ掻き傷がモグラには辛かったのです。
モグラには大きな爪があるので、またどこにでも穴を掘って自分ひとりが住むぐらいの家は作ることができます。
春が来て暖かくなれば、元のすみかに戻れることを信じて。

第二部

教育基本法
(生涯学習の理念)
第三条  国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。


父は昔、僕に向かってこう言った。
「結婚するなら、美人で達者で賢いひとを選べ。」
母のそばで僕にそう話す父は幸せそうだった。

父は会社勤めをしていて母は専業主婦だった。
父は好き放題に生きてきたように見えるが、僕には彼が妻のことを愛し続けていることが分かった。でも、その気持ちは母には全く届いていなかったように思えた。
母は夫からの愛に気づくことなく、人並みの生活を送れることに感謝することもなく、いつも悲劇のヒロインを自演していた。母は、父の収入が彼の小遣いを残して全額家に納められていたにもかかわらず、一言の感謝を述べるでもなく不平不満しか示さなかった。父は大企業に勤めていたので世間相場以上の安定した収入があったのだが、母は収入が少ないと詰ることさえあった。
でも、それが彼女の自我を保つうえでの唯一の方法だったに違いない。
父は頑固な人で、それだけに理解されにくく、常に居場所が無いような様子を示していた。
子どもの目には、両親の気持ちが通じていないように見えていた。


父はある時期、単身赴任をしていた。初めての一人暮らしだった。
業務は多忙だったが、一日頑張ったご褒美の晩酌は格別な味がした。
しばらくすると生活にも順応し、一人の部屋で布団に入るのが心地よく感じるようになってきた。
赴任寮近くの○○銀座と呼ばれる盛り場へ仕事仲間と行くのが数少ない楽しみだった。
なかでも、「スナックK」という店には父のお気に入りの女の子がいた。
水商売の世界では、店の女の子は単身赴任の男にはいれ込んではいけないという暗黙のルールがある。任が解かれると去って行くからだ。
お気に入りの子とはいっても結婚もしていて子どももいるし、年齢は父よりもひとまわり以上若かったので相手にされるわけもなく、なによりも店自体が明るい健全な店だったので、皆で陽気に騒いで歌って、父は翌日からの仕事の活力を得ていた。

その子は父が店へ行くと、必ず父の隣りに座ってくれた。体に触れることも無いけれど、いろんな話をした。
父はそこで、おもてなしの心を学んだ。
人に優しくすることを学んだ。
そして、妻一人に優しくできない自分が、店の女の子に優しくできるわけがないと思った。
その子はとても聡明で頭の回転が極めて早い子だったが、父はかつて、生涯でただ一人、自分に「好き」と言ってくれた妻の賢さに惚れたことを思い出したのだった。

僕が成人となって父と酒を飲む機会が何度かあったが、父はアイデアマンだった。僕は父の突飛なアイデアを、笑い飛ばしたり感心したり、実現に向けた荒唐無稽な議論で盛り上がったり。今でこそ会社は従業員に成果しか求めていないが、一昔前の企業戦士はいかに業務を改善するかに重きを置かれていた。
父は家族に対して頑固なイメージしか示さなかったが、息子と酒を交わす時の父は雄弁で知識も豊富で考え方も柔軟だった。


「激動」と言われる時代が長く続いている現代において、価値観もめまぐるしく変化している。
変わるものに適応していくためには、自らの行動や思考も柔軟に変えて行く必要がある。
人間は常に学習し、常に発達し続けているものだ。
人格も、その気になりさえすればいくらでも高くすることができる。
発達が人間の一生を通した継続的な変化の過程であるならば、人間は一生を通じて変化し続けなければならないし、人格の完成を目指し続けなければらないのではないかと考える。
そうしなければ、真実は何も見えない。


僕は、両親が喧嘩するのを一度だけ見たことがあった。
原因が何かは分からなかったが、僕が居合わせた時には父が水道の蛇口をひねり、洗面器一杯に張った水を母に浴びせるところだった。
さすがに僕は間に入って仲裁した。
父は母に手をあげることができない人だと思った。
その時、母の心は水よりも冷えていた。

母が僕の家に来た時にプッチーニの歌劇「蝶々夫人」のレーザーディスクを見せたことがあった。
両親が結婚前に舞台の袖で合唱した曲、「あんなに仲が良かったのに」とつぶやき、彼女は涙を拭っていた。

第三部への序

モグラにとって、勝手のわからない土地での生活は辛いものでした。
でも、支えてくれる友だちもできたので、冬の間なんとか頑張ることができました。
そして春が来て、モグラは前の家に帰ってきました。
ところが、そこにはヤマアラシが家族をともなって住んでいました。
モグラの帰る所はありませんでした。

第三部

もう一度お断りしておきますが、あくまでもこのシリーズの記事はフィクションであって、その登場人物や出来事等はすべて架空のものです。


戦前、日本の学校では修身の授業があり、筆頭教科として位置づけられていた。
そこでは、儒教の教えに基づいた道徳教育が行われていた。
学校でも家庭でも、目上の者を敬い兄弟や友だちをかけがえのないものとし、相手を思いやる心が自然に身につくように子どもは大切に育てられていた。


彼はかつて、ある人に命を助けてもらったことがあった。その恩人がいなければ、彼も彼の息子も孫もこの世には存在しないことになる。
ある時、彼の恩人が窮地に立たされたのだった。
恩人にお孫さんができたのだが、その子には先天的な心臓の異常があった。長く生きるには海外に渡って臓器移植を受ける必要があったが、渡航には多額の費用が必要とされた。募金活動をしているものの、目標の金額まで一千万円程度不足していて、残された時間もあまりないとのことであった。
彼にとって一千万円は、容易に準備できる額ではなかった。

近頃テレビを賑わせている某大学教授には、決して公けにしてはならない過去があった。
若い頃の過ちが世の知るところになると、教授の地位や名声、業績、人望、家庭、財産、それらのものすべてを失うことになる。
彼は教授の過去を知っていたが、決して口外しないことに決めていた。しかしながら恩人の危機に際して、教授から一千万円を出してもらうほかには救いの道は無いように思えた。
これは、刑法第二百四十九条の恐喝に当たるものである。

ある日の夜、彼は百貨店で購入した手土産の煎餅を提げ、重い足取りで教授の自宅に向かった。話の進め方を繰り返しシミュレーションしたうえで、教授が自宅でくつろいでいる時間を見計らって突然訪問することにした。
教授の家に向かう最後の角を曲がると、なんだか家の周りが物々しい雰囲気だった。
報道が教授の家を取り囲んでいた。
テレビ局の腕章を付けた人に何が起こったのか聞いてみたところ、教授が本を出版したのでその取材に来ているとのことだった。
彼は日を改めようと思って、教授の自宅前を後にした。
帰路にある書店に立ち寄ったところ、教授の書いた書籍が平積みにされていた。
教授の顔写真が大写しにされた表紙の書名が目に入った。
「過去の過ちを悔ゆ」

彼は、これで良かったのだと思った。
恩人になにひとつ恩返しのできない自分が情けなかったけれども。


さて、米国の心理学者コールバーグによれば、道徳観は六つの段階を持つという。

第一段階 : 懲罰志向
 行為の善悪は、人から褒められるか罰せられるかで決まる。
(例) 恐喝は犯罪であるためするべきではない。
第二段階 : 快楽志向
 正しい行為は自分の欲求や利益を満たすか否かにかかってくる。
(例) 彼が刑期を終えて出てくる頃には渡航の準備には間に合わず、恐喝は彼にとって何の得にもならない。
第三段階 : よい子志向
 正しい行為とは、他者に善いと認められる行為である。
(例) 彼は恐喝を働けば皆に犯罪者と呼ばれるとともに、病気の子どもにしても悪事で得たお金では喜べない。
第四段階 : 権威志向
 正しい行為とは、法律や秩序、権威などの社会的なルールに従う行為である。
(例) 恩人のお孫さんが病気だからといって恐喝を正当化することはできない。
第五段階 : 社会契約志向
 正しい行為とは、合理的な分析や相互の同意に基づいて決定されるものであり、さまざまな価値観や見解を認めたうえで社会契約的合意に従う行為である。
(例) 教授側にも非はあるけれど、お互いに相手の持つ権利を尊重し、恐喝にまで発展させる必要は無い。
第六段階 : 普遍的な倫理的原理への志向
 正しい行為とは良心にのっとった行為であって、その原理は全体的、大局的、普遍的な方向性を持ったものである。
(例) 彼は恐喝を行い、そのうえで罪を悔い償うべき。服役することになるが、それによって彼は人の命を救うことになる。

これは道徳性発達理論と呼ばれているが、必ずしも段階を経て最終段階に到達するものではなく、善悪の判断基準が自分か他者か全体かで行動を分類したものであると言えよう。
哲学には正解は無いが、心理学では不正解は無いのだ。


道徳では評価対象の欲望の程度を考える必要はない。
「善行」や「おもてなしの心」などは第六段階のものだと思う。
報酬や満足感を得ることが動機であれば第二段階であり、相手に喜んでもらおうという意識が強い限り第三段階の域を出ない。
自分の満足のためではなく、見返りを期待する考えは存在せず、人として当たり前のことを当たり前のようにすること、これが道徳観の完成されたひとつの「かたち」だと思う。

行動できる人は凄い人だ。
人は辛いことや悲しいことを経験して、そのぶん人に優しくなれる。
その人の表面に出さない心の葛藤や痛みや空洞のあることを理解し、共有し、受け容れることが必要だ。
思い込みや決めつけをせず、これまで生きてきた結果としての今現在の相手を認め受け容れ、そのことを将来にわたって継続すること。
心がつながっているということは、おそらくそういうものなのだ。


日本人は敗戦により大切なものを失ってしまったようだ。
「愛」のかたちについても同じなのかもしれない。
僕はヤマアラシになりたくない。
モグラのようになることもない。
僕は、モグラの心にできた隙間を満たすことができるような人になりたい。

(完)

あとがき

肌寒くなってきたが、朝から秋晴れの雲ひとつない空。
僕は散歩に出かけていた。
昔、よくトレーニングをした公園の広場。
ここには、春の日や冬の日の思い出が詰まっている。
灌木の植樹された斜面の上端には墓地がある。
数年前、中央に近い見晴らしの良い区画を購入した。
僕はしばらくの間、その予定地をみつめていた。
なんだかふと、あそこには入らないような気がして悲しくなった。

映画『風と共に去りぬ』におけるスカーレットの父親の言葉、
"The land is the only thing to last."
この世で永遠なのは土地だけだ、という。
がんばって仕事を続けて、余生は生まれた故郷で過ごしたいものだ。

Tomorrow is another day.(明日に希望を託して)

「ショートソング」枡野浩一

作家の本業は、良い作品を作ることと、その環境整備を主張し行動すること。
読者は、前者に対しては好評・酷評を好き勝手にすればよいのですが、後者については応援のエールを送ることができるだけです。
・・・って話はどうでも良くてw

のーさんのブログで紹介のあったこの書籍、読んでみました。
のーさんの書評から、普通に短歌の解説本っぽいのを期待していたのですが、、、

この本は、ダメです。
ほんとに、こんな本、買うんじゃ無かったと思ったのです。

もう、私の眼から涙が溢れて止まりませんでした。
小説として読んで、
魅力的な登場人物の控えめな描写、それぞれの苦悩、
悲しくて、切なくて。

そこにちりばめられる魅力的な短歌の数々と、歌壇の表と裏。
「歌人が作ると小説はこうなる!」といった力を感じ取ることができ、とても楽しみながら読み終えました。

残念な点は、
カツオくんが何時になったら瞳さんのDVDを観るのだろうという期待が叶えられなかったこと。
伊賀さんの舞子さんとの破局が唐突で、私には舞子さんの気持ちが汲み取れなかったこと。
瞳さんをもっとどん底まで落として、その立ち直りに伊賀さんかカツオくんが寄与できたとするのか、力になることはできなかったとするのか、そのあたりをもう少し描写してほしかったこと。

でも、

治りかけの傷のかゆみでまた君に懲りずに逢いに行きそうになる(柳澤真実さん)

この本は、永年保存になりました。


さて、ここまでは普通の読書感想文なのですが、噂では枡野先生は読者のブログを巡回して自著の評判をチェックしているという(笑)

枡野先生、
中高年層をターゲットとした、短歌を題材とした小説を書いてくださいw
古典の解説などを入れて、作風にも季節や風景や落ち着きといったものを斬新な手法で取り入れて。
主人公は、20年後の伊賀さんとカツオくんw
2人がセックスの無い愛と 愛のあるセックスを縁側で語るwww

ちょっと面白いかなと思ったので、提案しておきますねw

誤った「ノルウェイの森」の読み方

ここから先、ネタバレです(笑)

拙作「小説、銀河鉄道」において、「ぼく」は一人数役をこなしましたが、「彼女」は二人一役でした。
物語の最初の「彼女」と最後の「彼女」とは別人物です。
その記憶の抜けないうちに読んだ村上春樹の「ノルウェイの森」、その二回目の感想です。


「ノルウェイの森」では、たくさんの人が亡くなります。
しかしながら、死の理由やその時の状況は、あまり詳細に描写されていません。
それは、小説が「ワタナベくん」の視点で描かれているためなのですが、死をテーマとしてあまり重視していないような気がしました。
たとえば、緑さんのお父さんのダイイングメッセージ「上野駅」は、最後の電話ボックスの場所を言っているのではないのでしょうか。単に、作者の遊び心のような気がしてなりません。

この小説のテーマである「恋」について。
永沢さんと一緒に遊んだ2人の女の子との逸話にしても、緑さんの髪型の話にしても、「ワタナベくん」は女の子は見かけでは無いと思っているようです。
また、登場する4人の女性、いずれも頭が良いという設定になっています。しかしながら「ワタナベくん」はそれを当然のこととしてスルーし、彼女達の良さが良さとして見えていなかったのだと思います。
「紙に書かないと考えがまとまらない」の記述のように、「ワタナベくん」の言葉はうわべを取り繕うだけのものでした。
そのうえ時間はいつも一ヶ月単位で断片的で、連続性・永続性につながることはないのです。

さて、第一章に書いてある「十月の草原」。
本文中では今が何月であるかの記述は多くあるのですが、十月の記述はレイコさんとの時しか見つけることができませんでした。
小説では、第一章において「直子」と「彼女」とを使い分けることで「レイコさん」への想いを隠し、辻褄の合わないことは18年間の忘却のせいにしているようです。
「ワタナベくん」の生涯で最初で最後の、「目的」ではない「手段」としての性。
「私を忘れないで」がレイコさんの言ったものであるのなら、この小説のテーマは「恋=肉体関係」であることが明白であり、未だに他のことを学習できないワタナベくんって頭が悪いのだと思いました。

人の「心」なんてそんなものじゃなくて、何も分かっていない、しょーもないことだけに拘る小説中の「ワタナベくん」に自分を重ね合わせ、私は哀しくなるだけでした。
この世で正しいことは、「忘却」と「受容」だと思いました。
人間は、日々進歩しています。
過去の感性を忘れなければ、今を受け容れなければ、誰一人として救われることはありません。


なお、スパム対策のため、当ブログはコメント文に"sex"が含まれると受け付けない設定にしていますw

ノルウェイの森

歌合戦を見ていれば良いものをw
2008年12月31日、一年で最も余裕のないこの日、村上春樹の「ノルウェイの森」 を読み終えました。
先日の私の駄文、「小説・銀河鉄道」に、"村上春樹もびっくり"というコメントが付いたものですから。
あ、村上先生、たいへん失礼しましたw。

こんなに弱っている時に読むんじゃなかったと思ったのですが、後の祭りですw
でも、とても良かったww

確かに彼の文章は、「心」に訴えるものでした。
読んでいて、書いてあること全てに加えて書いて無いことまでも、「心」を感じ取ることができました。
こういう文章は好きだと思ったのです。
それが第一章~第三章まで。
第四章から、ちょっと世界が変わって、登場人物の落ち着きの無い会話もどこにでもあるものとして、人物たちの心の揺れを十分に楽しんでいました。
ところが、
最終章になって、私と書物の間には水膜があって、なぜか、うまく読めなかったのです。

この年になって、「恋」はできないな、
恋なんて、20年も前に終わったんだな、
と、感じました。

私には何も見えていません。
緑が、髪型を変えたことに気付いてもらえなかったことになぜあれほどこだわったのか。
小説の終盤、シワをここに持って来たかぁ~と思ったのですが、私はそこで訳が分からなくなりました。
十月って何??
私を忘れないでって、誰のこと??
近い来年、もう一度自分の目で読み直してみたいと思います。

小説、銀河鉄道

小説を書くのって難しいですw
ショートショート、作ってみました。
一話完結で、続編はありません(笑)


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The Bamboo Lady 4

姫が つきのせかいへ かえるひは、あさから さむい いちにちでした。
みおくりにいかなかった私は、姫は さむいのがにがてだったので「かぜをひかないように」と ひとり いのるだけでした。

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読書の秋

書店で、適当に平積みになっていた本を抱えてレジに並んで、
読んでみたら大当たりでした。

「償い」矢口敦子 著 幻冬舎文庫

償い

65万部を販売したこの推理小説。
ネットでの書評は必ずしも良いものばかりではありませんでした。
描写とか、テクニックとか、軽さとか。

私は、この本を 心で読んでみました。
もう、感動して凄いの一言。
今年読んだ本のbest oneでした。

9月から10月にかけて、自分で短歌を詠んでみて、日本語の素晴らしさが少しだけ分かったような気がします。
ことばを大切に扱うようになり、小説を読んでいても深い解釈ができるようになったようです。

たいせつにおもうだけで、真実が見えてきて、心がかよい あたたかくなるのです。

The Bamboo Lady (introduction)

Old Stories in Japan 25. かぐや姫


Long, long ago there lived an old man and his wife in a village, who were earning money by cutting bamboo and making the baskets or plates of it.
One day he went to the bamboo forest as usual, when he found one bamboo shining. He cut it, to his surprise, found a girl-baby in it.
The old man and his wife, having no children, named her "Kaguya Hime(Bamboo Princess)" and decided to raise her like their own child.
Whenever he went cutting the bamboo after that, he found money in it. Soon they became rich.
This young girl grew and grew, day by day, to be a very beautiful lady. Hearing of her beauty, many young men from many places visited her house one after another to propose her.
But she never showed her interest in them. She seemed to have something on her mind, looking up at the sky. As her father couldn't ignore their proposal, he told them that the man who brought the imaginary treasure in the world could have the right to marry her.
Even though some of them really brought the treasure, she at once found it false.
Soon she began to weep every night whenever she saw the moon.
"What makes you so sad? What's the matter?" asked the father.
"I'm all right. Listen to me. To tell the truth, I was born on the moon. I must return to the moon on the night of 15th,November, when they will come to meet me."
"That's nonsense." said the father, very embarrassed and angry.
The very day was tomorrow. The father hired many strong and armed soldiers to guard her from the visitors. He never hoped she would return to the moon.
On the very day, the moon was appearing over the mountain, when the gold light flashed on them. Many soldiers in vain shot many arrows toward the moon. With the flash they lost their power and fell into sleep.
An angel was coming down over the house among from the light of the moon. Kaguya Princess couldn't help following it. She slowly flew up to the sky in hands with the angel. Nothing could stop them.
The old man and his wife were doing nothing but watch her departure.

The Bamboo Lady 1

すきだったけれど むすばれなかったひとをわすれるための ただひとつのほうほう。
それは、べつのひとをすきになることです。


むかしむかしの おはなし。
はじまりは、どこにでもあるような できごとからでした。
そのころの私は、おんなのこにこえをかけることができるようなせいかくではなく、かりに だれかとなかよくなったとしても ながくつづくことはなくて、わすれることのできないきおくだけを かさねてきました。

かのじょのなまえは、「かぐや姫」。
なんどかいっしょに おちゃをのみにいったり、でんわでおはなししたり、どこにでもいるようなふたりでした。
でも、私はテレビの「にほんむかしばなし(Old Stories in Japan)」をよくみていたので、姫が11がつのまんげつのよるに、つきのせかいへ かえっていくことをしっていました。
姫を すきになってはいけないことは わかっていました。

いずれ つきのせかいへかえるのならば、せめてちきゅうにいるあいだは姫をささえ、たのしいおもいでをつくって かえってもらおうとおもったのでした。

姫はいろんなことをしっていて、つきのせかいのことや このまえにみにいったえいがのはなしや、しょうらいのゆめ、たくさんのはなしを私にしてくれました。私も、このまちのこと、ともだちのこと、げいじゅつのこと、いろんなはなしをしました。
なによりも、姫といっしょにすごすじかんが、とてもしあわせなものでした。

The Bamboo Lady 2

そのころのふたりは、アルバイトやべんきょうでいそがしくてなかなかあうことができなかったのですが、あるひ、らいしゅうのげつようびに じかんがあいていることをかくにんした私は、「げつようび、ドライブにいこう」と やくそくをかわすことができたのです。

ドライブはとてもたのしいものでした。
あさまでふっていたあめはやみ、私は 姫にやさしさのかぎりをつくし、姫はとてもたのしんでくれました。
みじかいじかんでしたが、私はしあわせでした。

つぎのひ、姫におれいのでんわをしました。
ところが、でんわの姫のこえは げんきがありません。
きけば、かぜをひいて ねつがあるので やすんでいるというのです。
そして、ドライブのまえのひにも かぜでしんどくて たおれていたとのことです。

そんなことなら いってくれたらドライブなんて いくらでも やめることができたのに。
私は くちでは姫のことをたいせつにするといっておきながら、じぶんのことばっかりかんがえて、姫のちょうしのわるいことには まったくきがつかなくて。
姫のやさしさはとてもうれしかったのですが、私は なにもわかっていないじぶんがなさけなくて かなしいきもちになりました。

The Bamboo Lady 3

そして、11がつ13にちのまんげつのよる。
つきのせかいから 姫をむかえにくる そのひがやってきました。
私は、みおくりにいくことはできませんでした。
きっと なみだがながれおち、かなしいわかれになるとおもったのです。

でも こころのかたすみに 姫はいつまでも いつづけるのです。
その たのしかった ちいさなおもいでひとつで、いくつもの かなしいおもいでは すべてきえさったのです。

そのような、むかしむかしの おはなし。
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関西在住。平日は北陸方面で単身赴任中。
息子は、父の影響で大の鉄道好き。
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